作品
秋田南高校 卒業
秋田大学 入学
在学中 三年
出展歴・受賞歴なし
塩谷舞さんのTwitterでメタセコイアを知った時、自分の作品について考えました。私は今まで、散文やソネットなどの詩、リリック、小説など、文学作品を主に作ってきました。応募資格には文字のみの作品が含まれてないように感じたので、私が過去に作った映像と文字を組み合わせた作品を(小説の部分を改訂して)応募しました。内容はyoutubeで見た”西尾維新大辞展”が元となっています。
私は芸術の定義の一つとして”正解と方法論がない”と考えています。そして、文学は芸術の中で最も取っつきやすい分野であり、同時に、ゴールがわかりにくい分野です。なぜなら、主語、てにをは、語尾を軸とする文体、形容詞と副詞の組み合わせである表現、最後に、センテンス(文体+表現)の組み合わせであるストーリー、こららの三つの組み合わせは無数にあり、私たちはこれらを日常的に、無意識に使っているからです。
押井守は、映画の要素を世界観・キャラクター・ストーリーとしていますが、一枚の絵画ではストーリーの部分が疎かになり、文字では世界観の表現が困難です。宗教画はストーリの部分を、聖書に外部委託しているとも言えるでしょう。
では、映像作品こそが至高の表現方法か、というと、そうではないと思っています。映像作品の敵は時間です。映像というからには、作家は時間について考える必要があります。それは、観客をコントロールするものです。反対に、絵画や文学に流れる時間は、観客がコントロールします。美術館を走り回ることや、本屋で立ち読みすることを防ぐ手段を作家は持ち合わせていません。
映像というのは、絵画の集合体と音声の合作であり、文字はその二つを繋げる役割を果たします。また、芸術そのものは、貨幣のように、観念と肉体を繋げる役割を担っています。言語という無意識の媒体を意識的に使い、無意識の概念を意識的に形にする、そのような作品をこれから作りたいと思っています。
絵画でいうと葛飾北斎、音楽でいうとamazarashi・ヨルシカ、映像で言うと庵野秀明・押井守・今敏、体験で言うと猪子寿之が好きなので、そのような分野の人と関われたな良いなと思っています。宜しくおねがいします。
塩谷舞さんのTwitterでメタセコイアを知り、作品応募いただいたpmCYさんは、言葉を映像化するという動画作品。電車に轢かれるギミックのあるのは1点のみで、他は自作のリリックをタイプ音と共に読ませていくという構成でした。西尾維新、押井守、amazarashi、ヨルシカなど、映画やPVも最近は歌詞や言葉を文字にしてものすごいスピードで流していくスタイルが増えました。pmCYさんの作品はそれに比べるといい意味で長閑で、それだけに届ける言葉の選択や洗練が大切になってくるのではないでしょうか。