作品



昭和4年6月8日生 世界恐慌の年に傘職人の八男一女の末子として大阪市浪速区に生まれる。
父親の仕事の関係で奈良に転居し、小学校から奈良に暮らす。
終戦の年に16歳にて総合信用金庫に運転手として採用される。ほどなくして書画の才能を見込まれて広報課に配属される。同期に入社した者から妬まれる事もあったという。
絵画、書道の才能を生かして、取引先ホテルの看板のデザインなどの依頼を受けるようになり、地元の店舗の看板なども頼まれて作っている。
次第に地元でも評判になり、40代になると寝る時間がないほど忙しく、包装紙や看板などのデザインをした。
55歳で定年前に早期退職し、和歌山県高野山にて50日間の修行ののち在家出家となる。
生駒の高野山真言宗寺院・南陽院にて卒塔婆や経文書きなどに奉仕し、依頼があれば今日も出向いている。
日展などの展覧会展示作品を見ても、「自分の方が上手ではないか?」と思うことがあり、出展する意欲が湧かず無名の作家として過ごしているので受賞歴はない。
文部省認定 硬筆と毛筆の最高位一級指導者は、所属する日本書法院本部の先生に強く勧められて受験し一発合格した。
93歳現役のアーチストです。
幼少の頃から書道に天才的な才能を発揮し、小学校3年生で担任教師から放課後に添削をするよう頼まれ、手伝い終わると回転焼きを2個買ってもらうのが楽しみであった。
6年生の時には、置き土産に小学校の看板を書くように頼まれたという。
16歳で大阪総合信用金庫に最初、運転手として就職。ほどなくして、その書の才能を見込まれ、各種デザインや感謝状、葬儀における弔辞書きなど書の実力が重宝され活躍する。その頃から独学で書画の制作にも取り組むようになる。
55歳頃に銀行を早期退職し、高野山にて修行し仏画の世界に目覚め得度。仏師として卒塔婆の制作や経文を書くなど各方面で活動を続けてきた。
所属する書道団体(日本書法院)の展覧会では一目置かれた存在ではあったものの、「競争をするので」コンテストには興味がなく、社会的には無名である。特別な師匠につくこともなく自分の画法の追究を続けてきた。
文部省認定 硬筆と毛筆の最高位一級指導者の資格取得「平成15(2003)年11月」
僧侶の資格を持ち、それぞれの作品についても強い思いを持ち制作し、大変心に沁みる話をされます。人間的にも大変魅力のある先生です。
何事にも無欲恬淡で、ただ只管に良いものを作りたいという純粋な情熱がどの作品にも溢れています。
最年長応募者。もう、圧巻です。委員会からコメントを出すのがおこがましいほどです。超絶技巧の仏画と書。技術云々は言うまでもありませんし、人生の詰まった作品にただただ敬服いたします。メタセコイアを見つけて応募くださり感謝申し上げます。